昭和56年2月15日 朝の御理解                 中村良一

御理解 第99節
「無学で人が助けられぬということはない。学問はあっても真がなければ、人は助からぬ。学問が身を食うということがある。学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる。」



学問があり、常識が発達し、んー、非常に道徳的な生き方を学んで知っておる人。そういう人に限って、えー、信心が頂きにくい。学が身を食うというのは、そういう事だと思う。ね。学問をして、色々、常識が発達する、ね。人間は、道徳的な、こういう生き方をしなければならない。えー、そこに、いうならば、信心に頂きにくい、入りにくい元があるのです。ですから、そうした学問があり、常識的な、道徳を身につけたという人達が、もう一つ超えた世界。いわゆる、信心の世界に目覚めた時に、その学問や、道徳、常識というものが生きてくる。本当に生きて来るんだとこう思います。ですから、その、無学を奨励するわけでも、道徳的であってはならないというのではないけれども、信心が頂きにくいという事。学が、身を食うという事であります。
信心の世界は、んー、おかげの世界に住むことですけれども、その、おかげの世界にあって、おかげを頂いておりましても、そこには、やはり、不安がある、心配がある。その不安、心配というものが、昨日御理解に頂きます、この、九十八節ですね。心は信心の定規じゃによってと仰るが、私共の、不安とか、心配の度合いが、私共は、神様の絶対心との対照であり、そこに、はぁ、これだけ分かってはおるけれども、実際に頂いておるのは、これだけだなというように分かってくる。ね。おかげ受けておっても不安である。おかげ受けておっても心配である。ね。ですから、その不安が、心配がなくなっていく世界ですから、ここはもう、いうならば、超学問であり、超常識であり、超道徳だということになるのです。ね。そこには、不安もなければ、心配もない、ね。いわゆる、安心と喜びの世界に住むことが出来るという世界を目指すことが信心なのですからね。自分のもっておる常識なんかが、邪魔をする場合が、皆さん、ありはしませんでしょうか。少しばかりは、ほんなら、勉強が、あー、確かに身を食うというような時がありはしませんでしょうか。あるです、ね。メクラ蛇におじずというが、ね。本当にあの、それは、目が見えないから、蛇におじない、怖がらないわけでしょうけれども、見えても怖がらない世界。
昨日、どなたにでしたでしょうか、あー、波多野さんだったでしょうか、何か、そんな意味のお届けがあったから、話したことでしたけれどね。とにかく、この、畳一枚のところを、ずーっとこう歩きなさいといったら、誰でも歩きますよね。この畳一枚のとこ。畳の上であったら。それが、ほんなら、手摺りのない、長い畳一枚の橋が、向こうから、こちらへこうかけ渡されておる。そこを渡りなさいち言うたら、なかなか、がたがた足が震えて渡れない。ね。信心とは、そういうところを、ね。いうならば、平生心で渡れれる稽古なんです。おかげは受けておっても楽ではない。ね。いわゆる、限りない、いうならば、絶対心の信心を身に付けていかなきゃならない。
今日、あの、福岡の川上さんところの、霊祭が、ここでございますから、もう、朝から、その御霊様の事の、まぁ、御霊様は、御霊様に心準備がございますからね。お祭りを受けさせて貰うとに。その事のお願いをさせてもらっておりましたら、んー、おかげを頂いているんですね。やはり、川上さん辺りの、ああいう熱心な信心をなさいますから、親が助かり、先祖が助かる。おかげを頂いておる。おかげを受けておるけれども、その、言うなら楽ではない。おかげは受けておるけれども不安であり、心配である。そういう不安やら、心配が、言うなら、段々取れていくようなおかげを頂くところに、信心の焦点がおかれなければならない。まぁ、信心の焦点。
昨日は、えー、の御理解を研修の時に、みんなに聞かせていただいたが、みんなが、あの、みんなが、その事を表現している中に、んー、合楽で一番すばらしいと言う事は、ね。絶対の信心を、はっきり、明示してあることだと。どげな信心すりゃ、助かるじゃろか。お徳が受けられるだろうかと、もう、それこそ、手探り的に、ああでもなかろうか、こうでもなかろうかというて、本気で信心を頂こうと言う人が、それこそ、あられもない行をしてからでも分かろうとするのに、合楽の場合はもう、絶対、ね。それが明示されておる、示されておるという事。しかも、それを頂く事のためには、ね。こういう信心がいるんだよと、ね。また、こういう信心を手掛けていくという事の、その手立てがね、合楽理念に説いてあるのだ。その気になれば、誰でもおかげが受けられ、誰でもお徳が受けられるという。しかも、絶対の、間違いのない焦点が示されてあることだという事でしたが。皆さん、そう思われませんですか。合楽では、絶対、まぁ、それを簡単に表現するなら、もう、絶対心は、絶対神愛。一切が神愛と分からせていただくという事。そして、なるほど、神愛だなぁ、どんな場合であっても、神様の御神愛の中にあることだなぁという事が分かる手立てをね。様々な角度から説いてある。
私は、昨日一昨日の十三日会に、最後に私がお話させて頂いた中に、福岡の、私共がおかげ頂く、もう、三代の、吉木辰二郎という、偉い先生が居られました。その先生のところに、毎日、長浜町に住んでおりました。長浜町から、荒戸まで毎日、えー、ま、日参り、夜参りさせて頂いて、何時も先生が仰っておられることの中に、私は、福岡教会の信者の一人一人が、億万長者になるように、神様にお願いをしておると言うておられましたですね。ね。ところが、なかなか、そんなに沢山、なら、福岡の教会に億万長者があるという風には思えないが、私は、吉木先生の教えを頂いておるうちに、私は、その当時、商売をさせて頂いておったけれども、もう、億万長者になれるだろうとこう、ま、そういうものを持っておりました。先生が、祈っておってくださる。ね。そしてから、私はその、お話をした後に、思ったんですけれども、んー、結局、ほんなら、先生が、みんなが億万長者になるようにお願いしてますよと。なら、億万長者にならせて下さい。そこには、その代わりという訳じゃないけど、それには、こういう道があるよ、こういう手立てがあるよという事を、日々、説かれるのです。億万長者になるためには、こういう信心にならなければならないよという事を説かれる。そして、みんなが、億万長者になってくるようである。それで、果たして私は、福岡の吉木先生の信心の、どこを頂き、貫いただろうかと思うてみて、ここを、皆さんに聞いてもらわなければいけなかったなと思うたんです。皆さん、私が、福岡の吉木先生のお話を頂いて、今日まで、ほんなら、貫き続けておるという事は、どういう事だと、皆さん、すぐ来るだろうと、ピンと。ね。なるほど、億万長者になられるはずだという事。吉木先生の祈りが、言うなら、合楽に実現した、ね。
皆さん、私は、何をほんなら、どういう教えを、私が貫いたか。吉木先生の信心を頂いておったかと。ね。私は、福岡の信心の芯は、馬鹿と阿呆で道を開けという事だと思うです。そして、三十年間なら、三十年間を振り返ってみて、ははぁ、あの時には、ここでは、利口もんにならにゃいかん。もう、それこそ、根も葉もないことを言われて、ですから、それに対して、言い訳をしよった、始めの間は。そら、親教会との間もそうでした。実はこうですよ。そすと、親先生も、直ぐ分かって、そうじゃろのち言うちから、分かって下さりよった。ところが、数日後に、もうまた、言い訳せんならんような事が起こるのが、繰り返していくうちにです。こりゃ、言い訳しちゃいかんなというところから、私は、それから、馬鹿と阿呆を数十年間続けてきとるです。どんな場合であっても言い訳せん。もう、馬鹿になり阿呆になり、そしてその、馬鹿と阿呆という信心が、いかに偉大なものであるかという事を気付かせて頂いておるです。ね。なるほど、私が、億万長者になるはずだと思うんです。
先だっても、御本部に提出しなければならない、いわゆる、経理の、んー、財産目録なんか作成、二日間、茂さんがかかりました。久保山茂さんが。そしてそれを、あの、見せていただきましたが、今、合楽の財産が、九億数千万あるです、ね。まぁ、いうならば、億万、勿論、その時分の信心から、私の信心と言うものは、次から次とこう、まぁ、飛躍していっとると思うんですけれども。ほんなら、ここで、皆さんにです、私が、ね。もう、とにかく、おかげを受けるには、神徳を受けるには、しかも、こげん今まで、私が考えておったような難しい事じゃ無いよと。火の行とか、水の行とかという事じゃ無いよと。もう、それこそ、日参教聴、心行家業の行だよ。そこに、日まさり、月まさり、年まさりのおかげが頂けるんだよと。そして、信心が分かったら、その信心を、真をもって現していくことによって、神徳の世界、いうならば、子孫繁盛、家繁盛の世界。ね。親の代よりも子の代の世界に広がっていく世界に住むためには、こういう信心をしなければならない。それは、その気になれば、それは、誰でも頂けれる信心だと。という事をです、ほんなら、そのまま、いうならば、信じれれるという事も、あんまり、色んな常識やら、学問が発達しておると、ほんなこつじゃあるじゃろかという事になってくるけどね。それこそ、メクラの人のほうが、返って蛇におじないという心が生まれてくるんです。もう、親先生が言われるとおりだと、そこから、一心発起させてもらう、行じさせて貰う、貫かせてもらうところから、おかげが頂けれる。ね。私は今日は、学が身を食うというが、私共も、まぁ、ね。えー、まぁ、少しばかりの、ほんなら勉強をさせていただいた。少しばかりも、段々、常識も、道徳的なは、こうであらなきゃならんという事も分かってきた。ところが、段々、信心を極めて言ったおりましたら、これは、非常識と思われるようなことを、平気でやらせられた時代があった。どんなに考えても、そら、道徳にもとるんじゃないだろうかと思うような事であっても、やっぱ、神様が、そうだと仰ら、それを承って、ハイというて実験してきた。そして、実証として現れたのは、なるほど、道徳じゃないな信心は。ね。学問じゃないなぁ、ね。常識的なもんじゃないなぁ。それを、超えたもの、教祖金光大神の前代未聞の信心。特に、言うならば、宗教以前の宗教のわけが、段々、はっきり分からされてきた。だから、今まで、私共が、勉強した、そういうものは、一遍、そういう頭から、かなぐり捨てて、合楽理念に、一遍通り、それにもう、帰依しきるという事。ね。そこから、ほんなら、まぁ、過去に便強した道徳も、常識も生きてくるのです。ね。先ずは、私はここで、無学でも、人が助かっておると言う。無学の状態に、メクラの状態にならなきゃならない。ね。そして、もう、それこそ、蛇におじない。親先生が仰るとこならもう、火の中でも、水の中でもというような信心が出来て、そして、言うなら、その肉眼をおいて、心の目が開けてきたときに、初めて、畳一枚の広さの橋を渡るのに、がたがた震わんでも渡れれるような心の状態。いうならば、まぁ、なんと申しましょうかね。ままよという、いうならば、信心の度胸も出来てくる。ね、そういう信心を、お互い、目指させているのです、ね。私がここで、皆さんの一人一人に、おかげを頂いてもらわねばならんというのは、皆さんが、おかげを頂く、頂かれるという事だけではなくて、ね。それが、合楽にかけられる神様の大きな願いが成就する事のためにも、一人一人が実証者になって頂かねばならないという事でございます。どうぞ。